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四日市公害裁判

年表

全国のできごと、四日市のできごとを年表にしました。

年代 全国のできごと 四日市でのできごと
1945 終戦  
1955  
8/26
旧海軍燃料廠跡地について「昭和石油に払い下げ、三菱・シェルグループによる石油化学コンビナートと連繋させる」ことを閣議決定
1958  
4/
昭和四日市石油四日市製油所が、日産4万バーレルで操業開始
1959  
4/
第1コンビナート本格稼働開始
1960  
3/
東京築地の中央卸売市場では「伊勢湾の魚は油くさいので厳重検査する」との通告をだした。その結果、四日市の魚はキャンセルや買い叩きにあうようになった。
4/
塩浜地区連合自治会が「公害で生活がおびやかされている」と、平田佐矩市長に異議申し立てをした。
10/
四日市市公害防止対策委員会発足
1961  
6/
塩浜地区の磯津は、鈴鹿川をはさんで第1コンビナートに隣接している。6月頃ぜんそく発作をおこして、町内の中山医院へ駈け込んでくる住民がでるようになった。”塩浜ぜんそく”と呼ばれたが、第二コンビナートの操業開始とともに塩浜地区以外でもぜんそく患者が発生、”四日市ぜんそく”と呼ばれるようになった。
10/
第2コンビナートのための午起海岸埋立地完成(69万平方メートル)
1962  
9/
四日市地区大気汚染対策協議会発足(国・県・市)
1963  
6/21
「くさい魚」の原因となった、三重火力の排水口を磯津の漁民が封鎖する実力行使・漁民一揆が発生。田中覚三重県知事が6月23日に現地視察。魚を一口噛んで「くさい」と吐き出した。1965年1月6日に中部電力は磯津漁協に3,600円の補償金を支払った。発生源はそのままであった。
7/01
社会党・共産党・地区労・三化協が「四日市公害対策協議会(公対協)」を結成、「公害をなくす市民大会」を開催した。
8/
四日市市公害対策室設置
11/
第2コンビナート本格稼働開始
11/25
?29
厚生・通産両省の「四日市地区大気汚染特別調査会」(黒川調査団)の現地調査。
1964  
4/2
元石原産業従業員で塩浜在住の古川喜郎さんが肺気腫で死亡。公害犠牲者第1号。
5/
四日市市衛生部に、公害対策課を設置
5/
ばい煙規制法の規制地域に、四日市市と楠町が指定
6/
小学校、幼稚園に空気清浄機設置(189台) 
6/
異臭魚分布調査
1965  
4/
大気汚染が学童に与える影響調査開始。1969年まで。
5/
四日市市単独による、公害病認定患者認定制度が発足。患者の医療費を四日市市が負担する制度。第1回四日市市公害関係医療審査会で18名を公害患者に認定
6/
三重大学塩浜病院に空気清浄病室設置(24床)
1966  
3/
水質保全法による規制水域(四日市・鈴鹿水域)となる
7/
大協石油近くに住む公害認定患者の木平卯三郎さんがぜんそくと生活苦で首つり自殺
8/6
東海労働弁護団・三重県労協・四日市公対協が、公害訴訟について第1回準備会を開く
8/
四日市都市公害対策研究会が都市改造計画(マスタープラン)を答申
11/
三重県がテレメーターによる大気汚染の常時監視を開始
11/
鈴鹿川堤防とコンビナートに挟まれた平和町67戸の集団移転(1968年まで)
1967
06/12
新潟水俣病裁判提訴(四大公害訴訟の始まり)
08/03
公害対策基本法公布・施行
09/01
四日市公害裁判提訴
2/18
第3コンビナート誘致・霞ヶ浦埋め立てで市議会が強行採決。
6/13
公害病認定患者の大谷一彦さんが、「今日も空気が悪い」の一言を残し、自宅の菓子製造場で自殺。
7/
三重県公害防止条例制定
7/28
霞ヶ浦埋め立てで、公有水面埋立法に基づく賛成決議、2度目の強行採決
8/
三重県公害センター設置
9/1
四日市公害ぜんそく訴訟提訴。原告患者9人が塩浜第一コンビナート6社を被告にした「訴訟」を、津地裁四日市支部に提起した。
10/31
塩浜中学校3年生の南君枝さん(15)が、発作による呼吸困難で死去。四日市では女性が中心となり、追悼集会と行進をした。「死んだなどというな、殺されたのだ」のプラカードも掲げられていた。
11/30
公害訴訟を支持する会発足
12/
コンビナートに囲まれた雨池町44戸が集団移転
1968
12/01
大気汚染防止法・騒音規制法施行
4/24
コンビナート労組が主体の三重県化学産業労組協議会が、組合員を対象に公害調査「3分の2が勤務中に公害に悩まされた事があり、体に変調が40%」など、発生源労働者にも公害影響していることが判明
7/24
裁判所が現場検証
7/28
三重県宗教者平和懇談会が「四日市公害死没者大追悼会」を開催
9/30
四日市地域公害防止対策協議会(会長:知事、国・県・市・企業・住民・学者)の第1回総会
10/4
四日市公害認定患者の会が発足。これとともに公害患者をはげます会(会長:訓覇也男市議)も発足
1969
12/15
公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(特別措置法)公布
02
硫黄酸化物の1時間値の年間平均値が0.05ppmを超えないことを主とする環境基準が定められる
3/14
訴訟原告の今村善助さん(78)が塩浜病院で死去。認定患者では26人目の死者
8/15
四日市海上保安部が、日本アエロジルを廃塩酸たれ流しで検挙
10/2
公害を記録する会が「公害市民学校」(第1期)を、この日から週2回、計10回、磯津公民館ではじめる。
12/
公害にかかる健康被害の救済に関する特別措置法が交付され、指定地域となる
12/22
四日市海上保安部(田尻宗昭警備救難課長)が、一日20万トンの廃硫酸をたれながしていた石原産業四日市工場を「港規法」違反容疑で検挙。
1970
11/24
公害国会(第64臨時国会)始まる。公害対策基本法など公害関連15法案が成立
1/30
公害被害者救済法に基づく初の認定審査会が開かれ、国の認定患者として464人が認定された
3/1
「公害から子どもを守る塩浜母の会」が、子どもが公害患者の母親たちで発足した。塩浜小学校の校長や、養護教諭、担任の教諭が力添えをした。
4/3
四日市市教育委員会が「公害学習指導資料」を作成。ただし、実施は校長の判断にまかすとされた。
7/26
青年法律家協会が「第2回全国公害研究集会2日目を閉じるにあたり「被害者の立場で献身的に奮闘する」との四日市宣言を採択
11/5
海蔵小学校1年生の公害認定患者がぜんそく発作で死去
12/
四日市地域が「公害対策基本法」に基づく「公害防止計画第1次地域」として指定
1971
06/30
イタイイタイ病裁判被害者側全面勝利判決
07/01
環境庁が発足
09/14
中央公害対策審議会(以下中公審)発
09/29
新潟水俣病裁判被害者側全面勝利判決
2/19
津地検が、肺硫酸たれ流しの石原産業と工場幹部を起訴
2/23
教師・学生・労働者など「助っ人」を自称、訴訟支援、公害発生源撤去を目標に、ミニコミ『公害トマレ』テスト版発行。「四日市公害と戦う市民兵の会」を名乗る。(月刊第1号は4月10日)
3/25
三重県労協が中心となり「四日市公害訴訟件共闘会議」を結成
5/24
市民兵の会主催「第2期公害市民学校」はじまる。週1回、計8回
7/10
公害訴訟原告患者最年少の瀬尾宮子さん(38)が、入院先の塩浜病院で死去
8/27
磯津の患者と遺族100人程が2次提訴を決意。弁護団はこれを受けると表明
10/16
2次訴訟原告予定の児童と母親を対象に、市民兵の会が「反公害磯津寺子屋」を開始
1972
01/07
「全国公害弁護団連絡会議」結成
07/24
四日市公害裁判被害者側全面勝利判決
2/1
四日市公害ぜんそく裁判結審。第3コンビナート本格稼働開始
3/
塩浜小学校は「科学の誇る工場は、希望の光です」とコンビナートを謳いあげた校歌をこの年の卒業式から歌うことをやめた。2年後、問題の歌詞を変更した。県立南高校の校歌も、同様で、作詞者の谷川俊太郎さんによって一部が改作された。富田中学校は、「白砂青松」を謳いあげてる一番の歌詞を消してしまった。
4/
三重県は、国の規制よりもきびしい硫黄酸化物の総量規制を実施する事を決め、二酸化硫黄の環境濃度の最終目標値の0.017PPMを1976年(昭和51年)度までに達成する条例を設けた。
5/25
公害訴訟関係者による抗議団が上京。被告企業本社で、即時請求額を支払えなどを要求、大石環境庁長官にも会い、要請
6/2
三菱油化が河原田工場建設を計画、県市は推進。河原田の住民運動のおかげで進出を阻止した。三菱油化が県知事に建設断念を申し入れた。コンビナートの工場進出を阻止したのは初めて
7/24
四日市公害ぜんそく訴訟で「原告患者側全面勝訴」判決
8/4
第1回立ち入り調査実施
8/
県と市が、コンビナート関係企業に公害防止に関する事項を緊急指示
9/1
磯津地区公害認定患者と遺族121人(のち追加)が2次訴訟にかわる直接交渉で、被告6社に5億7585万円の補償を要求。この日、磯津公民館で第1回交渉
10/3
磯津公民館で、知事・市長・昭和四日市石油らが、公害患者などに、8万バーレルの増設プラントの運転をしても公害はないと説明
10/23
橋北地区患者の会が、隣接の第2コンビナート3社に金銭を含まぬ11項目の青空要求書を提出。中部電力四日市火力発電所長は「亜硫酸ガスを出しているが無公害」と拒否(あくる日に受け取る)
11/6
四日市公害認定患者の会役員が、県市の仲介でコンビナート10社と交渉。企業は「発生源対策は県市の指導にしたがってやってやる。補償は財団をつくってやる」と直接交渉を避ける
11/30
第1コンビナート6社が、磯津の直接交渉参加者140人に、補償金5億6900万円を支払うことで合意。補償協定に調印した
1973
03/20
熊本水俣病裁判被害者側全面勝利判決
10/05
公害健康被害補償法」(以下補償法)制定
11/23
「全国公害患者の会連絡会」を結成
12/10
全国公害患者の会連絡会、環境庁に「公害健康被害補償法にもとづく政令制定にあたっての請願」提出
3/
県は、主要16工場と煙源テレメーター方式による燃焼状況の常時監視を開始
5/10
患者の会が商工会議所で財団準備委代表と財団構想について交渉
6/7
財団構想についての交渉で、企業側が退席。患者の会は27日まで商工会議所の一室で座り込みの抗議行動を行う
7/24
第2回立ち入り調査実施
8/24
「公害訴訟を支持する会」が解散したあと、「四日市から公害をなくす会」結成大会がもたれた。
9/1
四日市公害をなくす会設立総会
9/4
四日市市公害対策協力財団設立を、三重県知事が認可して発足した。
これよりさき、磯津の二次訴訟は直接交渉となり、患者と遺族140人が6社と交渉をかさねた。
11/12
第3回立ち入り調査実施
1974
08/02
補償法の政令及び施行令公布
09/01
補償法の政令及び施行令実施
06
大気汚染防止法の改正、硫黄酸化物総量規制の導入
4/2
三菱モンサントのPCBや水銀、カドミなどの有害廃棄物を、鈴鹿市八野の山林に埋めたのを住民が知って騒ぎだし、県は、廃棄した産廃はドラム缶60本程度と言っていたが、掘り出させたら1,243本も出てきて、モンサントが工場内へひきとった。
4/2
日本アエロゾル四日市工場が、バルブミスで塩素ガスを流失、風下の市街地に被害をおよぼし、わかっているだけで住民44人の目やのどに障害を与えた。津地検は会社と従業員を起訴(4月30日)、津地検は1979年3月、名古屋高裁は1984年(昭和59年)1月、いずれも有罪としたが、最高裁は1988年(昭和63年)10月27日、会社に罰金200万円を命じ、無罪を言い渡した。従業員には、過失を認め、業務上過失傷害罪が成立するとした。
1975
05/26
千葉公害裁判(千葉あおぞら裁判)提訴
05/26
全国公害患者の会連絡会、環境庁と国会に「公害健康被害補償法及び政令の改善等に関する請願」提出
 
1976
06/06
第1回全国公害被害者総行動デー、以降毎年開催。
08/30
国道43号線道路公害裁判提訴
12/21
全国公害患者の会連絡会、窒素酸化物の環境基準と補償法・政令の改善を環境庁に請願
6/13
コンビナートで失われた海岸、泳げる海を返せと「四日市入浜権をとりもどす会」が霞ヶ浦で講義と要求の水泳デモ
11/10
公害患者の会、弁護団、映画サークル等が制作の映画「ほんとうの青空を」(30分)が完成
1977
02/08
経済団体連合会(以下経団連)、「公害健康被害補償制度改正に関する意見」を政府と環境庁に提出
03/28
環境庁、「二酸化炭素の健康影響への判定条件の検討」を中公審に諮問
12/04
全国公害患者の会連絡会、環境庁に「窒素酸化物による汚染地の地域指定並びに公害地域指定解除に関する意見書」提出
3/
四日市市は、市内測定局で、二酸化硫黄の環境基準を達成したと発表
9/1
三重県環境保全事業団が設立
1978
07/11
環境庁、二酸化窒素(NO2)規制基準を大幅に緩和した新環境基準(日平均0.04ppm~0.06ppm)を告示
11/29
全国公害患者の会連絡会、環境庁にNO2新基準撤回を要求
3/
四日市公害対策協力財団が解散
1979
02/15
経済4団体が、自由民主党に指定地域解除を要望
06/09
第1回日本環境会議
06/
経団連、カラーパンフレット「公害健康被害補償制度を考える―大気汚染が改善されたなかで」を発行
11/09
環境庁、公害健康被害認定審査会全国会議に「6才以上のぜんそく性気管支炎患者は公害患者認定せず」の方針を提案、その後撤回
4/
四日市公害健康被害者みたき保養所竣工
7/30
二酸化窒素の基準緩和をもりこんだ、三重県公害防止条約改正案が、三重県議会で可決。日平均値0.02ppmを0.04ppmに
1980
2/23
四日市市議会の「石油関連企業は立地させない」との決議を無視して、四日市港管理組合が「霞の埋め立て地に中部電力のLNGタンク基地設置をみとめてほしい」との要望書を提出
3/10
弁護団、患者の会ら数団体が「霞・川越公害企業新増設反対協議会」を結成。四日市市議会に、第3コンビナートの拡張・中部電力川越火力発電所の新設に反対する請願を行った。
3/17
工場廃水で刑事事件となった石原産業四日市工場裁判で、津地裁は全面有罪とし、元工場長2人に懲役3か月、執行猶予2年、会社に罰金8万円の判決
3/18
市と県は、河原田地区の内堀町に新魚さい処理場をつくるとして、地元住民に説明したが、悪臭を恐れて住民は反対
3/24
四日市市議会が霞ヶ浦埋立地に中部電力のLNGタンク基地設置を認める決議を行った
1981
01/
経団連、カラーパンフレット「青空が帰ってきたのに…公害健康被害補償制度を考える」を発行
05/17
「全国公害患者の会連合会」結成大会
12/11
経団連、第二次臨時行政調査会(以下臨調)に「環境行政の合理化に関する要望」を提出
06
大気汚染防止法施行令一部改正、窒素酸化物を総量規制の指定ばい煙に追加、東京・神奈川・大阪で規制実施
3/30
四日市市単独による公害患者の救済を打ち切り
12/21
三重県が1979年末にまとめた「四日市コンビナートの地震二次災害想定調査」で東海大地震が起きると大被害死者8000人の予測を隠ぺいしていたことが発覚
1982
03/18
川崎公害裁判第一次訴訟提訴
11/12
環境庁は、中公審に地域指定のあり方を全面的に見直すことを求める諮問
6/25
いなべ市(旧藤原町)の住民が、小野田セメント(現・太平洋セメント)の粉塵公害についておこした公害訴訟で、津地裁四日市支部で「住民側勝訴」の判決。
7/23
四日市公害裁判判決10年を考える集会を、実行委員会主催で開催。23日(集会とデモ行進)、24日(シンポジウム)。
8/25
三菱油化が立ち入り調査を拒否したことに対抗し、裁判所の仮処分決定をとり、立ち入り調査
11/18
魚さい処理場・北勢ハイミール建設反対で、河原田・塩浜地区住民と、三重郡楠町とが原告となっておこした建設差し止め訴訟を、津地裁四日市支部に提起、住民側の反対尋問で、悪臭発生を認め、行政は判決前に「建設断念」を表明した。
1983
公害指定地域解除(補償法廃止)反対運動が活発に行なわれる
02/
経団連、カラーパンフレット「公害健康被害補償法を考える…大気汚染が改善されたなかで」を発行
03/14
臨調「第一種指定地域の地域指定及び解除の要件を明確にすべし」との答申
09/17
川崎公害裁判第二次訴訟提訴
11/09
倉敷公害裁判第一次訴訟提訴
11/12
環境庁は、中公審に補償法の地域指定見直しを諮問。全国公害患者の会連合会、抗議行動
 
1984
公害指定地域解除(補償法廃止)反対運動が活発に行なわれる
09/20
大気汚染指定地域解除阻止第一波中央行動
 
1985
公害指定地域解除(補償法廃止)反対運動が活発に行なわれる
03/05
指定地域解除反対3月総行動
03/09
川崎公害裁判第三次訴訟提訴
10/28
指定地域解除反対10月総行動
 
1986
公害指定地域解除(補償法廃止)反対運動が活発に行なわれる
10/01
指定地域解除反対の中央行動(~10/06)
10/30
中公審は臨時総会を開き「41指定地域を全面解除、新規認定せず」との答申
11/07
倉敷公害裁判第二次訴訟提訴
12/20
内閣総理大臣、公害指定地域解除について関係自治体に意見聴取
2/25
名古屋通産局、県、市、商工会議所、コンビナート企業などで「四日市地域石油化学工業活性化推進対策会議」がもたれ、公害病指定地域廃止、教科書から公害記述をとりのぞくことなどを議論した。
6/7
環境庁の「環境保全功労者」に、三重大医学部・吉田克巳教授(四日市市公害対策委員会副会長)と、前川辰男(社会党市議、市公害対策委員長)が選ばれた
1987
公害指定地域解除(補償法廃止)反対運動が活発に行なわれる
02/13
補償法改訂法案国会に上程
05/18
全国中央行動(~05/19)
08/27
衆議院本会議で補償法改訂法可決
09/18
参議院環境特別委員会で補償法改訂法採決、成立
2/4
四日市市長、三重県知事と楠町長は、国に対し、公害健康被害補償法改正(認定制度廃止)に同意する意見書を提出
1988
03/01
補償法改訂法施行、公害指定地域解除
10/07
「地球環境と大気汚染を考える全国市民会議」(以下CASA)発足
11/17
千葉公害裁判判決で原告勝利
12/24
川崎公害裁判第四次訴訟提訴
12/26
尼崎公害裁判提訴
3/
公害健康被害補償などに関する法律が施行され、四日市市は公害患者の新規認定を認めなくなった
3/1
市民兵の会は公害健康被害補償法の新規認定廃止に抗議、廃止開始日に「第三期公害市民学校」(10回)を開催した。
4/1
四日市市は公害対策課を環境保全課と改名
1989
03/31
名古屋南部公害裁判提訴
6/2
三重県庁で、知事、四日市市助役と、東芝副社長が、四日市市の山の一色地区に、東芝ハイテク工場を誘致・建設すると発表。住民は、東芝と立入調査権をふくむ「直接公害防止協定」を締結した。
1990
10/08
名古屋南部公害裁判第二次訴訟提訴
7/
石原産業四日市工場の産業廃棄物アイアンクレイを、市民兵たちがガイガーカウンターを持参して、環境保全事業団が管理している小山田の処分場で調査したところ、放射能を検出、三重県は、後追い調査で「問題はない」との発表で幕を下ろした。
1991
12/07
第1回アジア・オセアニア環境会議
12/17
パリNGO会議に各地の公害患者会より代表が参加
2/
国際環境技術移転研究センター(ICETT)が、所管を三重県から通産省に移管、再発足した。「発展途上国のために環境保全技術移転研究活動を行う」とするもので、市街地から遠く離れた桜地区に建設した。
1992
03/30
「あおぞらデーin東京・国際シンポジウム」開催
06/03
自動車窒素酸化物削減法(自動車NOX法)」公布
06/03
「環境と開発に関する国連会議(UNCED)」がブラジル・リオデジャネイロで開催。各地の患者会より代表が参加
08/10
千葉公害裁判、東京高裁で和解成立
7/24
四日市公害判決20年の7月24・25日、日本環境会議が四日市市で集会を開催。この時に合わせ、公害訴訟弁護団と公害を記録する会が、「四日市公害記録写真集」と新聞が語る四日市公害(新聞記事スクラップ)を発行。
1993
11/12
環境基本法成立
 
1994
01/25
川崎公害裁判判決、企業責任を認める
03/23
倉敷公害裁判判決、全面勝訴
11/20
アジア太平洋被害者国際交流集会
12/14
全国一斉電力会社申入れ行動
9/30
"公害患者たちの駆け込み寺でもあった三重県立塩浜病院が、対象人口減と老朽化で閉鎖。 翌日、裁判被告企業の三菱化成・油化・モンサント化成が合併、東洋一の大化学会社「三菱化学」となった。"
1995  
6/
環境保護や改善に功労のあった個人や団体に贈られる国連環境計画の「グローバル500賞」が、加藤寛嗣市長と四日市市に授与。「500賞」受賞を契機に、四日市市は「快適環境都市宣言」を市議会で決議。
1996
03/07
川崎公害裁判判決
05/31
東京公害裁判提訴
12/01
京都でCOP3始まる
12/25
川崎公害裁判が企業と和解
12/26
倉敷公害裁判が企業と和解、全面解決
6/21
四日市市と教育委員会が、市立博物館で、企画展「公害の歴史ー公害の街から環境の街へ」を7月21日にかけて開催。期間中に「公害患者発生の終結」(吉田克巳氏)、「公害は終わっていない」(原告患者野田之一氏)の2つの記念講演があった。 この期間中に「第5回田尻賞」の授与式が市文化会館であり、公害を記録する会の澤井余志郎氏に授与。
8/
市内本町プラザの4階に「四日市市環境学習センター」を開設。
1997
06/09
「環境影響評価法」成立
12/07
地球温暖化防止京都会議(COP3)市民集会
7/24
判決25年を考える集会開催を機に、8月1日「四日市再生・公害市民塾」を発足。毎月24日に例会開催とミニコミ紙「瓦版」発行で発足。
1998
08/05
川崎公害裁判2~4次地裁で勝利判決
08/18
川崎公害裁判、国が控訴
10/16
東京裁判第4次訴訟提訴
11/27
アジア太平洋NGO環境会議
7/1
「四日市市公害犠牲者遺族の会」が発足。
1999
02/1
尼崎公害裁判、被告企業と和解
05/20
川崎公害裁判、国・道路公団と和解
 
2000
01/31
尼崎公害裁判、国・道路公団に勝利判決
03/14
財団法人水島地域環境再生財団(みずしま財団)設立
06/08
全国公害患者の会連合会、環境庁長官に補償費引き上げ要求書を提出
11/27
名古屋公害裁判、国・被告企業に勝利判決
12/08
尼崎公害裁判、国・道路公団と和解
 
2001
01/06
環境庁、環境省へ機構改革
06/
自動車NOX・PM法成立
08/08
名古屋南部公害裁判、国・企業と和解
1/12
三菱化学のエチレンプラントが操業を停止。のちに撤去。第一コンビナートは従来のコンビナートではなくなった。
4/
三重大学が、一般教養科目として「環境問題」を開設、四日市公害に関する講義を始めた。2004年度からは「四日市公害から学ぶ四日市学」という名称に。県下ではじめての全学的取り組み。
2002
10/29
東京公害裁判1次判決
11/08
東京公害裁判国が控訴
11/12
東京公害裁判原告が控訴
 
2003  
4/
四日市大学環境情報学部が、選択科目「公害史」(3年生対象)を開設、四日市公害に関する講義をはじめる。
7/24
「四日市公害認定患者の会」と「四日市公害犠牲者と家族の会」が合体、「四日市公害患者と家族の会」として発足した。
9/19
三重県が、石原産業が1998年(平成10年)1月から生産をはじめた埋め戻し材「フエロシルト」を、リサイクル商品に認定した。
1/28
四日市市環境学習センター内に「公害資料室」を開設。博物館での企画展「公害の歴史」で使用したパネルと市史編纂で集めた資料が並べられた。
2004    
2005
2/
四日市市が三重郡楠町を合併。
6/16
県議会で、市内大矢知地区の産業廃棄物が日本最大規模であることを県が報告。許可外約170万立方米、許可内127立方米。県の調査で地下水から砒素などが検出されている。
11/5
有害な六価クロムが混入していたにもかかわらず、リサイクル商品・土壌埋め戻し材として販売、京都・岐阜・愛知・三重の1府3県に不法投棄していた「フェロシルト」問題で三重県が石原産業と元副工場長を刑事告発した。
2006
09/28
東京公害裁判1次高裁控訴審結審
 
2007
07/02
東京公害裁判、企業と和解
5/23
三菱化学事業所内でプラントが爆発。塩浜海道向かい側の民家のガラスが割れるなどの被害があった。
6/25
石原産業産廃不法投棄刑事事件裁判は、5回の公判を経て、この日、会社に5千万円の罰金、佐藤副工場長に懲役2年の実刑、宮崎部長に執行猶予つきの懲役1年6ヶ月の有罪判決があった。佐藤被告だけが名古屋高裁に控訴した。 名古屋高裁は12月26日、一審の判決を支持、実刑判決。佐藤被告は上訴するとこなく刑に服することにした。
7/21
大学教授や研究者・市民などの「四日市環境再生まちづくり検討委員会」(代表・宮本憲一大阪市大名誉教授)は、四日市公害訴訟判決35周年を記念する集会で、四日市の新たなまちづくり像を示す「提言書」を発表、アピールを採択した。
9/29
「政策提言」をうけ「四日市まちづくり市民会議」は、35周年に関わっての記事・放送をした新聞記者のみなさんに話を聞く”市民講座”を開催した。
9/13
四日市市は、昭和四日市石油製油所の敷地内で地下水や土壌から最大濃度で、環境基準の2600倍のベンゼン検出があったと発表した(環境基準は、1㍑中0.01ミリグラムで、土壌からは240倍にあたる2.4ミリグラムが、地下水からは2600倍にあたる26グラムがそれぞれ検出された)。市環境保全課は24日に立入調査を実施、周辺の水路で検出されなかったことや地下水が使われていないことから、外部への影響は少ないとみている。
10/25
三重県は、四日市市内小山町の産廃最終処分場で、不法投棄された大量の産廃から発生し続けている高濃度の硫化水素の対策を講じようとしない運営会社と元社長の告発を起こした。
10/26
中部電力川越火力発電所(三重郡)は三重県や川越町と結んでいる公害防止協定の約1.3倍の窒素酸化物が排出されたと発表。
2008  
3/
JSR(日本合成ゴム)四日市工場は、計17時間、ばい煙中の窒素酸化物が大気汚染防止法の基準(210PPM)を最大1.2倍超えていたと発表。また工場内にある5号ボイラーで17時間、窒素酸化物の濃度が最大で252PPMに達したことを三重県に報告する義務を怠っていたと発表。
1/
石原産業四日市工場内の農薬工場などから、最大で環境基準の153倍の有害物質が検出されたと四日市市が発表。また、基準を超える窒素酸化物を含むばい煙をボイラーから排出していたとして県から指導を受けたと社長が県庁で発表、ニセリサイクル商品(産廃)不法投棄や、有機物残渣の不法投棄にとどまらず次々に明らかになる不祥事に「うみの出し方が生ぬるかった」と反省を口にした。
3/5
三菱化成四日市事業所は、05年以降2回にわたり、大気汚染防止法の規制値を超える窒素酸化物を含んだばい煙を排出していたことを明らかにした。いずれも県に報告をしておらず、県は管理体制の改善や報告の徹底などを文書で指導した。
5/14
石原産業の織田健造社長は三重県庁で会見し、四日市工場で、毒ガスとして化学兵器に転用可能なホスゲンを国に無届で製造するなど、新たに7件の不正行為を発表した。
5/26
石原産業四日市工場が化学物質排出管理法に違反していた問題で、大阪地裁は過料8万円を科す決定をした。
6/3
石原産業四日市工場の一連の不正問題で、三重県は放射性廃棄物を含む産業廃棄物「アイアンクレイ」の1991~2006年度文の放射線量率の測定データについても、大半が国の自主管理基準より低くなるよう改ざんしていたことが分かったと発表した。最大で基準の2倍程度あるといい、基準値をこえるアイアンクレイの処分先は、新たに岐阜・兵庫・三重各県の4ヶ所増えた。
7/6
石原産業四日市工場は、不祥事が相次いだため、操業を一時停止して、点検と補修工事をしていたが、一部施設の操業を開始すると発表した。同工場は6月27日から各プラントの操業を順次停止し、約20日間かけて施設の総点検を進めた。
7/20
三重大学国際環境シンポジウム「四日市学」が三重大学講堂で開かれ、朴恵淑教授が基調講演で「四日市公害は過去の出来事ではない、四日市で起きていることを、三重大学の学生にきちんと教えて伝えよう、人材が育てばそれは”三重大ブランド”として、世界に誇れるものになる」と呼びかけた。
7/23
ハイテクの東芝四日市工場が有毒ガスを無届で貯蔵、使用していた問題が発覚。
8/18
自動車の排ガスや工場のばい煙に含まれる浮遊粒子状物質(SPM)は、四日市市など6地点で環境基準を上回り、大気汚染が心配される結果となった。
10/24
判決25周年の1997年に発足した四日市再生「公害市民塾」が、月刊と(途中に)奇数月に発行してきた「瓦版」100号となり、この期に終刊した。(その後、若いメンバーが110号まで発行した
2009    
2010  
3/30
公害学習の語りべ活動などで、四日市再生「公害市民塾」が、三重県の「平成21年度みえ環境活動賞」に選ばれ、他の5団体とともに野呂知事から表彰状が渡された。
5/27
四日市市は、コンビナート企業などと個別に協議していた新たな公害防止協定の締結を完了したと発表した。締結したのは市内の企業など46社で、悪質な違反があった場合に課す10万円の違約金条項は18社が盛り込んだ。
7/24
「四日市公害裁判判決38周年・環境再生まちづくり市民集会」が、判決日の7月24日に本町プラザ1階ホールであり、今回は、脱公害判決世代にちなみと、住みよいまちづくりには市民と企業と行政が共に手を携えていくことが大切と、かつての被告企業に参加を呼びかけたのに応え、4社から20余名の参加があり、公害弁護団の郷成文弁護士の講演を聞いた。
9/7
三菱マテリアルは、高圧ガスを無届で使用していたとして県から指摘を受け、操業を停止していた四日市工場2つのプラントについて、操業を開始したと発表。
2011  
3/28
四日市公害資料館設立の予算案が四日市市議会で可決された。
6/8
東海テレビ放送が1年以上かけて撮影した「青空どろぼう」の上映が、東京の東中野ポレポレで始まった。
11/2
三菱化学四日市事業所の幹部社員40余が、裁判で争った原告患者野田之一さんを招き、公害裁判、患者の苦しみなどを機器、理解を深めた。
11/5
四日市環境学習センターの呼びかけで「四日市公害解説ボランティア養成講座」があり、20名が参加。
2012  
5/22
四日市市は議員説明会で、公害資料館の候補地として、市立博物館と本町プラザの2ヶ所を提示、9月までに立地場所を決めるとしている。
6/9
四日市公害訴訟原告患者の野田之一さんが、前年の三菱化学に続き、被告企業であった昭和石油四日市製油所に招かれ、公害裁判やぜんそくなどについての話をした。
6/29
有害物質を含む産業廃棄物を、三重県にリサイクル商品「フェロシルト」の認証を受け、京都、岐阜、愛知、三重県下に大量に不法投棄した石原産業(大阪本社)四日市工場長や経営者に、撤去費用480億円を会社に賠償するよう求めた3人の株主による民事訴訟で、大阪地裁の松田裁判長は、会社の損害と認めた485億8400万円の支払いを遺族3人を含む5人に命じた。
2013
7/29
公害裁判判決40周年の集いが四日市市主催で開催。シンポジウムでは企業代表と被害者、四日市市、弁護士がパネリストとなって、話し合う場がもたれた。
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